才丸行き
長塚節
起きて見ると思ひの外で空には一片の雲翳も無い、唯吹き颪が昨日の方向と變りがないのみである、
滑川氏の案内で出立した、正面からの吹きつけで體が縮みあがるやうに寒い、突ンのめるやうにしてこごんだ儘走つた、炭坑會社の輕便鐵道を十町ばかり行つ て爪先あがりにのぼる、左は崖になつて、崖の下からは竹が疎らに生えて居る、木肌の白い漆がすい/\と立ち交つて居る、漆の皮にはぐるつとつけた刄物の跡 が見える、山芋の枯れた蔓が途中から切れた儘絡まつて居る、
小豆畑といふ小村へ來た、槎たる柿の大木は青い苔が蒸して幾本となく立つて居る、柿の木の下には小區域の麥が僅に伸び出して、菜の花が短くさき掛けて居る、ところ/″\に梅が眞白である、
小豆畑を出拔けると道は溪流に沿うて山の峽間にはひる、笹はぼつさりと水の上に覆ひかぶさつて、山芋の蔓がびつしりと絆つて居る、頬白が淋しく啼きなが ら白い翅を表はして飛び出る、十三四位の女の子がついて小束の矢篠を背負つた馬がぼくたり/\とやつて來る、脚から腹まで一杯に泥がついて見すぼらしい姿 である、
素性よくしげつた杉のほとりを行く、此あたりの道は規則正しく拵へたやうに、横に一文字に低くなつては高くなり、又低くなつては高くなつてる、どこまでも同じやうである、低い所は蹄の趾で馬は必ずそこを踏む、泥水が溜つて居る、余等は飛び/\に高い所を踏んで行く、
この人を見よ
芥川龍之介
わたしは彼是(かれこれ)十年ばかり前に芸術的にクリスト教を――殊にカトリツク教を愛してゐた。長崎の「日本の聖母の寺」は未だに私の記憶に残つてゐる。
かう云ふわたしは北原白秋氏や木下杢太郎(もくたらう)氏の播(ま)いた種をせつせと拾つてゐた鴉(からす)に 過ぎない。
それから又何年か前にはクリスト教の為に殉じたクリスト教徒たちに或興味を感じてゐた。殉教者の心理はわたしにはあらゆる狂信者の心理のやうに 病的な興味を与へたのである。わたしはやつとこの頃になつて四人の伝記作者のわたしたちに伝へたクリストと云ふ人を愛し出した。
クリストは今日のわたしに は行路(かうろ)の人のやうに見ることは出来ない。それは或は紅毛人たちは勿論、今日の青年たちには笑はれるであらう。しかし十九世紀の末に生まれたわたしは彼等のもう見るのに飽きた、――寧(むし)ろ 倒すことをためらはない十字架に目を注ぎ出したのである。
日本に生まれた「わたしのクリスト」は必しもガリラヤの湖を眺めてゐない。赤あかと実のつた柿の 木の下に長崎の入江も見えてゐるのである。従つてわたしは歴史的事実や地理的事実を顧みないであらう。
(それは少くともジヤアナリステイツクには困難を避 ける為ではない。若し真面目に構へようとすれば、五六冊のクリスト伝は容易にこの役をはたしてくれるのである。)それからクリストの一言一行を忠実に挙げ てゐる余裕もない。
わたしは唯わたしの感じた通りに「わたしのクリスト」を記すのである。厳(いかめ)しい日本のクリスト教徒も売文の徒の書いたクリストだけは恐らくは大目に見てくれるであらう。
才丸行き
長塚節
起きて見ると思ひの外で空には一片の雲翳も無い、唯吹き颪が昨日の方向と變りがないのみである、
滑川氏の案内で出立した、正面からの吹きつけで體が縮みあがるやうに寒い、突ンのめるやうにしてこごんだ儘走つた、炭坑會社の輕便鐵道を十町ばかり行つ て爪先あがりにのぼる、左は崖になつて、崖の下からは竹が疎らに生えて居る、木肌の白い漆がすい/\と立ち交つて居る、漆の皮にはぐるつとつけた刄物の跡 が見える、山芋の枯れた蔓が途中から切れた儘絡まつて居る、
小豆畑といふ小村へ來た、槎たる柿の大木は青い苔が蒸して幾本となく立つて居る、柿の木の下には小區域の麥が僅に伸び出して、菜の花が短くさき掛けて居る、ところ/″\に梅が眞白である、
小豆畑を出拔けると道は溪流に沿うて山の峽間にはひる、笹はぼつさりと水の上に覆ひかぶさつて、山芋の蔓がびつしりと絆つて居る、頬白が淋しく啼きなが ら白い翅を表はして飛び出る、十三四位の女の子がついて小束の矢篠を背負つた馬がぼくたり/\とやつて來る、脚から腹まで一杯に泥がついて見すぼらしい姿 である、
素性よくしげつた杉のほとりを行く、此あたりの道は規則正しく拵へたやうに、横に一文字に低くなつては高くなり、又低くなつては高くなつてる、どこまでも同じやうである、低い所は蹄の趾で馬は必ずそこを踏む、泥水が溜つて居る、余等は飛び/\に高い所を踏んで行く、
魚の序文
林芙美子
それだからと云(い)って、僕(ぼく)は彼女(かのじょ)をこましゃくれた女だとは思いたくなかった。
結婚(けっこん)して何日目かに「いったい、君の年はいくつなの」と訊(き)いてみて愕(おどろ)いた事であったが、二十三歳(さい)だと云うのに、まだ肩上(かたあ)げをした長閑(のどか)なところがあった。
――その頃(ころ)、僕達(たち)は郊外(こうがい)の墓場の裏に居を定めていたので、初めの程は二人共妙(みょう)に森閑(しんかん)とした気持ちになって、よく幽霊(ゆうれい)の夢(ゆめ)か何かを見たものだ。
「ねえ、墓場と云うものは案外美しいところなのね」
朝。彼女は一坪(つぼ)ばかりの台所で関西風な芋粥(いもがゆ)をつくりながらこんな事を云った。
「結局、墓場は墓場だけのものさ、別に君の云うほどそんなに美しくもないねえ」
「随分(ずいぶん)あなたは白々(しらじら)としたもの云いをする人だ……そんな事云わぬものだわ」
こうして、背後から彼女の台所姿を見ていると、鼠(ねずみ)のような気がしてならない。だが、彼女は素朴(そぼく)な心から時に、僕にこう云ううたをつくって見せる事があった。
帰ってみたら
誰(だれ)も居なかった
ひっそりした障子(しょうじ)を開けると
片脚(かたあし)の鶴(つる)が
一人でくるくる舞(ま)っていた
坐(すわ)るところがないので
私も片脚の鶴と一緒(いっしょ)に
部屋(へや)の中を舞いながら遊ぶのだ。
岸田國士
「戯曲時代」といふ言葉の定義は僕が嘗て下したところによると「雑誌の創作欄が、昨日までは小説のみで埋められてゐたのに反し、読み物としての戯曲が、可なりの頁数を占めるやうになつた今日の時勢」に外ならぬのであるが、さういふ時勢も昨年の半頃から、そろ/\また遷りかけてゐるやうに見える。調べて見ないとはつきりしたことは云へぬが、兎に角、二月号の大雑誌は申し合せたやうに戯曲を一篇も載せてゐない。これは勿論偶然であらうが、かういふ傾向は確かに注目に値する。
元来、戯曲作家は、その製作動機に於て、小説家とやゝ趣を異にし、如何に舞台にかけるといふ意識なしに書かれた戯曲でも、この創造的努力は完全な上演によつて初めて完全に報いられる性質のものである。それと同時に、小説家が絶えず思想と生活から直接にその材料と霊感とを与へられ、それによつて製作の衝動を誘起されるのに反し、戯曲作家は、一面、「今日の舞台」から常に貴重な暗示と刺戟とを受けなければ油の乗つた作品が書けないのではあるまいか。
一般に、文壇の不振を唱へられる折柄ではあるが、就中、戯曲作家の不勉強は、自分だけの気持から推してもさういふ外面的の事情が、大きな原因の一つになつてゐるやうに思はれる。
早く云へば、「今日の舞台」に多くの不満をこそ感ずれ、その中から、殆ど何等の刺戟も受けない今日の戯曲作家は、知らず知らず感興のない仕事に引ずられるか、又は、感興がないから、仕事をしなくなるのである。
固より才能の問題もある。然しながら、何処の国で、何といふ劇作家が、その時代に於けるその国の舞台に興味を持たないで立派な仕事をしたか。殊にまた、何時の時代に、どういふ劇作家が、自分の信ずる俳優、又は、自分を理解する俳優なしに、その作品の価値を世に問ふことができたか。
僕は、必ずしも、所謂「戯曲時代」の去ることを悲しまない。寧ろ、それは当然なことだと思ふ。たゞ悲しむのは、あの華々しい「戯曲時代」の後に来るものは、恐らく、更に大なる新劇の暗黒時代であるに違ひないといふ一事である、だが、その結果、現在の所謂、新劇が滅び去るとすれば、それはそれでもいゝ。畸形児の夭折は、或る意味に於て「双方のため」に望ましきことである。