手紙を書く間、待たぬかといふと、平次はどうせ倉造が戻るのは九時頃だらうから待つのも好いが昨夜のでんは堪えられぬと不気嫌であつた。
二人は昨夜さん/″\に待ち足労れて、二階を罵つてゐるうちに眠つてしまつたのであつたが、僕が馬を引いて出かけると間もなく倉造は、同行の夢にうなされて眼を覚すと思はず激しく眼をこすつたのであるさうだつた。
その瞬間彼は、不覚にも左の義眼のことを忘却して手荒く突いた。がために、ひとたまりもなくそれは破裂してしまつた。彼は早速眼を買ひに、今朝徒歩で小田原の町へ出発した。僕はやゝ責任を感じて定価を訊ねると、近頃は安いのが出来てたしか一個三十銭位からあるさうだと平次が代言した。
そして彼は、六里もある道程を眼玉ひとつを買ふためにてく/\と歩いて行くなんて何と馬鹿気たことではないか、三つや四つのかけ換へ位は買ひ置いておいたら好さゝうなものなのに、ドブロクを飲む金は工面しても眼玉の買ひ置きは惜しいのらしい、しみつたれと仲間を難じた。
そしてまた、そんなに僕が身装のことを気にするのなら帰りがけに小田原の町にある僕の生家を訪れて、講演会に出席するために要用と偽り、親父のもうにんぐこうとを持ちだして来てやらうと、倉造が点頭いてゐたことなどをつけたした。
何を聴いても僕の気分などは浮き立ちもせず沈みもしない白さであるばかりであつた。では、ゆつくりと手紙も書けるといふものだと僕はいひ遺して二階へと引きあげた。ところが机に向つて見ると、どうしたといふことであらうか、前夜のあの凄まじい竜巻に引き換へて頭は全く空の如く無であるのみで、あんなにも龍太へ向つて書き足したかつた「抽象的陶酔」とか「現実的享楽」とか「一体人の頭に浮ぶ凡ての象に、抽象や現実の別のあり得るはずもないのだ。
例へば天を仰いで可見の星の姿を写さうならば、それは直に空想の所産であつて、ひつきよう絶対の存在ではないか。」などと書きかけて破いたばかりで情熱などはものの見事に消え失せてゐた。
部屋を頼むハガキを一分間のうちに走筆して炉端に現れると、平次は作業場から米俵を担ぎだして、昨日からの俵の数を算へ土間に積みあげた。
何か口をあけて叫んでゐるらしいが、水車の轟々たる音響で一向言葉は通ぜず、こちらも、それに応へるかのやうにぱくぱくと口を動かしたが、実際には言葉は何も発してゐなかつた。故意ではない、全く何もいふべき文句もなかつたからである。
すると平次は、こちらの口つきを見てどう悟つたものか快げなる薄ら笑ひを浮べた。僕も微笑を浮べたのかも知れない。彼はせつせつと俵を担ぎだして、間もなくそこに山を築いて頂上に腕を降ろした。そしてまた何か叫んだ。僕は口を動かすのも面倒だつたから、好い加減に首を縦に振つてゐた。
やがて山の上の平次が何かつぶやきながら、開け放しになつた戸口からランプ一つしか点ともつてゐない薄暗い内側へ、月の光りが射し込んでゐるのを指差すので、彼もまた月光の恵みを悦ぶのかと僕も感じて籠り詰つたかの如き夢の息苦しさを、鯨のやうに吐きだしながらもうろうたる酔眼を投げると、光りの中に新しい眼玉をぎよろりと輝かせた倉造が洋服箱を抱へて肩をそびやかせてゐた。