岸田國士
一般的に極く広い意味に於る文化を考へる場合、即ち文化の時代性、文化の水準を、全体として考へる場合、僕は地域的に都会に文化が集中して、田舎には文化が浸潤してゐないといふ考へ方を、大雑把には信用しないのです。
或る場合には田舎の方に却つて水準の高い文化の遺産があつて、そこを離れた、近代化した都会のなかで、さういふものが亡びてゐるやうなことも考へられるのです。たゞしかし、文化の地域的偏在といふことも亦いろいろな意味で云へると思ふ。僕は、それぞれの地域が、それぞれの優れた文化をもつてゐる状態が一番理想的と思ふのです。一国の文化政策としても、或は国民のそれぞれの社会的関心といふ点から云つても、さういふ方向に向つて努力しなければならんと思ふ。たゞ今後の健全な文化とは一つは生産面に於る文化、もう一つは生活から遊離したところに発展したものでなく、本当に生活に根を下した、生活現象の発展としての文化でなければならぬ、といふ、二つのことが云へると思ふ。日常生活のなかにその人間の文化性、或は文化的価値を見ることが、今まで比較的少なかつた。今までと云つても、極く最近、明治の末期頃から一層さうなつたので、例へば一人の甲といふ人間を考へた場合、政治家なら政治、学者なら学問といふ、その専門的な部門では、立派な仕事をしてゐるが、一度この人間の生活――普通私生活といつてゐる部分、さうして、その私生活に寧ろその人間の全貌が実際現れるわけなのだが――を観るとその人の公の生活の中に十分発揮されてゐる人間的価値と幾分違つた形で、いはゆる非文化的な状態でそれが現れてゐるやうなことも度々あるのではないか。
今後は人間の価値標準などももう少し実質的に見なければいけない。どうも今までは、仕事を生活の他の面から孤立さして秤にかけるといふところがあつたやうです。これなども、今後の文化を考へる場合、改めねばならぬことゝ思ひます。今日、職域奉公といふことが非常にやかましく云はれますが、作家は、作品を書くことが奉公でなければならん。さうするとすぐ作品そのものに何か奉公といふ精神がなければいけないといふやうに、ものゝ考へ方が狭くなつて行くやうな傾向が現在あることは、非常に危険だと思ふんです。
人の仕事といふものは人の生活から出てゐるんだ。その人の人格全体、その人の生活全体が、現在の時代に役に立つて行けばそれでいゝので、逆にだんだん人間と社会の接触する面を狭めて行くやうなものゝ見方が、また起りかゝつてゐることは、大いに警戒しなければならんと思ふのです。一番極端な例は、八紘一宇とか、臣道実践とかいふことを、口の先で云つてゐれば、万事通用するなどゝ簡単に考へてしまふことです。鼻の頭にちよつと看板をぶら下げて置けばいゝといふことになつては大変だ。