下村千秋
また雪が降り出した。
もう一尺五寸、
手の指も足の指もちぎれそうだ。
しかし俺は喰いものをあさりに、
一人山へ登って行く。
俺はいつも、男だ男だと思って、
寒さを消しながら、
夢中で山から山をあさって歩く。
これは、青森県のある新聞に載せてあったもので、或る農村――八甲田山麓の村の一青年の詩である。詩としての良し悪しはここでは問題としない。只、この短かい詩句の中から、大飢饉に見舞われたこの地方の百姓達の、生きるための苦闘をはっきり想い浮べて貰えれば足るのである。殊に、
「俺はいつも、男だ男だと思って、寒さを消しながら、夢中で山から山をあさって歩く」という文句の、男だ男だと、ひとりで我がん張っているところが、あまりに単純素朴であるだけ、哀れにも惨めではないか。
私も、常陸ひたちの貧乏な百姓村に生れて、百姓達の惨めな生活は、いやというほど見て来た。また、東京へ出てからは、暗黒街にうごめく多くの若い女達、失業者街にうろつく多くの浮浪者ルンペン達の、絶望的な生活も、げんなりするほど見て来た。そうして、人間、飢えということが、どんなことであるか、それはどんな結果を見るか、ということも、あらゆる機会あらゆる場合で見て来た。
しかし、右の詩句に現われているような、単純にして素朴な苦闘ぶりには、それが、大凶作、大飢饉地帯の中であるだけに、私は、今までの暗黒街の女群や、ルンペン群の生活苦闘に対して感じたのとはまた異った、一種特別の暗然たる気持ち――泣きながら眠って行く孤児を見るような淋しい暗さを感ぜずにはいられなかったのである。
で、私は考えずにはいられなかった。果してこれが、飢饉地帯の百姓達の最後までの生き方であろうか。多くの百姓達は、食物が尽き果てて、ついに餓死する時まで、同じように黙々として、何ものも恨まず、何ものにも訴えずに終るのであろうか?