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帰京記

豊島与志雄




 大正十二年の夏、私は深瀬春一君と北海道を旅し、九月一日には函館の深瀬君の家にいた。午後になって、大地震の情報が達し始めた。その夜は待機の気持でねた。翌日午頃、津軽海峡の連絡船に身を託し、次で青森駅発の地震後最初の上野行急行に乗った。汽車は三日の夕刻浦和につき、それから先へは行かない。人間も荒川を越すことが禁ぜられている。浦和郊外に、当時三宅幾三郎君が住んでいたので、私はそこに一夜厄介になった。

 関東地方大地震ということが、函館へ最初にはっきり伝えられたのは、鉄道局の運輸課を通じてであったらしい。次で、電話電信鉄道など全部不通ということになってからは、報道がまちまちで、真相をとらえることが困難になってきた。或は下町の方全焼、或は三越に火災、或は関東地方全滅など、そして私の居住地本郷千駄木町付近についても、或は本郷区全焼、或は帝大に火災、或は砲兵工廠無事など、各種の報道がさくそうしていた。その中にあって私がもっとも不満に感じたのは、それらの情況に対する明確な時間付がないことだった。明確な時間付さえあれば、大体の有様を捕捉出来そうだったが、それがないために、真偽とりまぜた報道がからみあって東京全市が災害の煙に包みこまれてしまうのだった。

 連絡船の乗客はみな興奮の色を浮べていたが、青森からの汽車の乗客は、みな落ちついてぼんやりしてるらしかった。宇都宮あたりから汽車は著るしく速力をゆるめ、停車時間も長くなり、軒の傾いた農家が見えたりした。そして至る所物静かだった。それが、大宮になって一変した。憲兵、警官、自警団、避難民、そうした人々が駅を埋め、兵士を満載した無がいの貨車が見られた。大宮からは最徐行で、街道には避難者が続き、浦和に至って汽車は停止したのである。東京についての情報は函館でよりも更にあいまいを極めていた。近づくに随って情況があいまいになるのは、不思議なことである。

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