睡魔
部屋を飛出した村田は、庭を抜けて犬小屋の方に駈けて行く。
そして、盛んに吠たてているゲンの犬舎の前まで来ると、後から行く喜村と美都子が、あっ、と思う間に、金網の戸を開けてしまったのだ。
「おい、村田!」
喜村の制止する声も間に合わなかった。
そればかりか、得たりとばかりに飛出して、柵をくぐり抜け砂気の多い道を林の方に駈けて行くゲンのあとを、村田もまた夢中になって追駈けて行くのだ。
「おーい、おーい」
仰天した喜村は、いくら呶鳴どなっても振向きもしない村田のあとから、美都子と肩をならべて駈けだした。
「仕様がないな、どうしたんだろう」
「ヘンねえ、少し来たのじゃないかしら」
美都子は駈けながら、その断髪の頭を振って見せた。
「そうかね、……あんまり眠り病、眠り病で研究させられているところに、ばたばた人が倒れるのを昨日からさんざ見せつけられたんでカッとなったかな」
「そうかも、しれないわ、だけど、早いわね、ずいぶん」
彼女が、はあはあ息を切らした時分に、やっと林のあたりまで行きついた村田が、急に立止って、こんどはうろうろしているのが見えた。
「やっと止まったわ、何さがしてんでしょ」
「あ、ゲンもいる、ゲンも――」
喜村は、村田よりも、ゲンの方が気になっていたらしい。
水族館
私は諸君に、このなんとも説明のしやうのない淺草公園の魅力を、出來るだけ完全に理解させるためには、私の知つてゐるかぎりの淺草についての千個の事實を以てするより、私の空想の中に生れた一個の異常な物語を以てした方が、一そう便利であると信ずる。
ところで、さういふ物語をするためには私に二つの方法が可能だ。それはその物語を展開させるために必要な一切の背景を――たとへば劇場とか、酒場とか、宿屋などを全く私の空想の偶然に一任してしまふか、或ひはまた、さういふ背景だけは實在のものを借りてくるかである。そして私にとつては、むしろ後者の方が便利のやうに思へる。
何故なら、私は經驗から、空想といふものは或る程度まで制御されればされるほど強烈になつて行くといふことを、知つてゐるからである。
さて、私がこの物語を、最近の流行に從つて、近頃六區の人氣の中心となりつつある、カジノ・フオリーの踊り子たちのところに持つて行くのを、許していただきたい。
事實は、私は彼女たちについて何も知らないのだ。そして私がこの物語を物語らしくするために、敢へてそれの無作法になるのも顧みないであらう、彼女たちに關する私の空想は、當の彼女たちをして怒らせるどころか、無邪氣な彼女たちをしてただ笑はさせるに過ぎないだらう。私はそれを信じるのである。
随想
時代の移り変わりは妙なものである。そのころは新しく奇異の思いにも感じられなかったことが、後にふり返ると滑稽にも思われる。
私は十三歳の頃京都の画学校に入ったが、その時分の学校は今の京都ホテルの処にあって、鈴木松年先生が北宗画の教授をされていた。
半季ほどたってこの学校に改革が起こって松年先生は学校をやめられた。そんなことでその儘私も松年先生の画塾へ通うことになった。その当時に斎藤松洲さんという人が塾頭をしていたことを記憶する。私はちょうど六ヶ年間松年画塾にいて、十九歳の年に、楳嶺先生の塾へも通ってその後に竹内栖鳳先生の御訓導を受けた。
新機軸への開拓に深く印象づけられて、幸いにも今日あるに到ったことは勿論、日本画の骨子に松年先生の賜物もあるが、栖鳳先生の偉大なる御指導の程にも敬慕と感謝の念は忘れることは出来得ない。
真に現時の絵画を、過去のそれに比較するに及んでは、格段の趣きで感慨殊に深きを覚ゆる。ずっと以前に如雲社という会が京都であって、確か毎月裏寺町で開かれていたが、ここには京中の各派の社中の方々が思い思いの出品もされ、私もそのいいのをよく見取りもさせて貰った。
ほんとうに楽しんで面白く、和気靄々裡に一日を過ごすといった風の会だった。時代の変化でそうした親睦さは今ではちょっと出来にくかろうけれど、こういう風の会はこれ迄この会以外には見られない位に考えられる。のんびりとしたいい会であったと思うと懐かしい。
せめてこの様な会が当節でも一つ位あったらよかろうにと折ふしに思われる事でもある。そのころの美術雑誌で『煥美』というのがあって、いつかその雑誌で松年先生と久保田米僊さんとが、画論に争論の花を咲かせたことも覚えているが、世の中の向上とか進展などというものには、様々の議闘もまた争論も生れる、しかしよくも悪くもこれは過去をふりかえった時には、微笑ましい愉悦さを覚えしめるものと私は思えてならない。
手紙を書く間、待たぬかといふと、平次はどうせ倉造が戻るのは九時頃だらうから待つのも好いが昨夜のでんは堪えられぬと不気嫌であつた。
二人は昨夜さん/″\に待ち足労れて、二階を罵つてゐるうちに眠つてしまつたのであつたが、僕が馬を引いて出かけると間もなく倉造は、同行の夢にうなされて眼を覚すと思はず激しく眼をこすつたのであるさうだつた。
その瞬間彼は、不覚にも左の義眼のことを忘却して手荒く突いた。がために、ひとたまりもなくそれは破裂してしまつた。彼は早速眼を買ひに、今朝徒歩で小田原の町へ出発した。僕はやゝ責任を感じて定価を訊ねると、近頃は安いのが出来てたしか一個三十銭位からあるさうだと平次が代言した。
そして彼は、六里もある道程を眼玉ひとつを買ふためにてく/\と歩いて行くなんて何と馬鹿気たことではないか、三つや四つのかけ換へ位は買ひ置いておいたら好さゝうなものなのに、ドブロクを飲む金は工面しても眼玉の買ひ置きは惜しいのらしい、しみつたれと仲間を難じた。
そしてまた、そんなに僕が身装のことを気にするのなら帰りがけに小田原の町にある僕の生家を訪れて、講演会に出席するために要用と偽り、親父のもうにんぐこうとを持ちだして来てやらうと、倉造が点頭いてゐたことなどをつけたした。
何を聴いても僕の気分などは浮き立ちもせず沈みもしない白さであるばかりであつた。では、ゆつくりと手紙も書けるといふものだと僕はいひ遺して二階へと引きあげた。ところが机に向つて見ると、どうしたといふことであらうか、前夜のあの凄まじい竜巻に引き換へて頭は全く空の如く無であるのみで、あんなにも龍太へ向つて書き足したかつた「抽象的陶酔」とか「現実的享楽」とか「一体人の頭に浮ぶ凡ての象に、抽象や現実の別のあり得るはずもないのだ。
例へば天を仰いで可見の星の姿を写さうならば、それは直に空想の所産であつて、ひつきよう絶対の存在ではないか。」などと書きかけて破いたばかりで情熱などはものの見事に消え失せてゐた。
部屋を頼むハガキを一分間のうちに走筆して炉端に現れると、平次は作業場から米俵を担ぎだして、昨日からの俵の数を算へ土間に積みあげた。
何か口をあけて叫んでゐるらしいが、水車の轟々たる音響で一向言葉は通ぜず、こちらも、それに応へるかのやうにぱくぱくと口を動かしたが、実際には言葉は何も発してゐなかつた。故意ではない、全く何もいふべき文句もなかつたからである。
すると平次は、こちらの口つきを見てどう悟つたものか快げなる薄ら笑ひを浮べた。僕も微笑を浮べたのかも知れない。彼はせつせつと俵を担ぎだして、間もなくそこに山を築いて頂上に腕を降ろした。そしてまた何か叫んだ。僕は口を動かすのも面倒だつたから、好い加減に首を縦に振つてゐた。
やがて山の上の平次が何かつぶやきながら、開け放しになつた戸口からランプ一つしか点ともつてゐない薄暗い内側へ、月の光りが射し込んでゐるのを指差すので、彼もまた月光の恵みを悦ぶのかと僕も感じて籠り詰つたかの如き夢の息苦しさを、鯨のやうに吐きだしながらもうろうたる酔眼を投げると、光りの中に新しい眼玉をぎよろりと輝かせた倉造が洋服箱を抱へて肩をそびやかせてゐた。