まして、この新しい、或は正しい政治理念のもとにおいては、国民全体が、それぞれ、大政を翼賛し奉る意味に於て、政府の施策に協力し、その正しき運営を推進するのが今日当然の本分とされてゐるのだから、私が、単に、「演劇人」の資格で「政治」を論ずるだけでなく、国民の一人として、即ち、日本国家の広義の政治活動を僅かながらでも分担しなければならぬ一臣民として、政治機構全体。
浮世絵画家の肉筆というものは、錦絵とはちがった別の味わいがあるものですが、こんど蒐集陳列されたものは、屏風、掛物、巻、画帖など種々な形のものがあって、しかも何しろ二百点ばかりもあったろうと思いますから、こういう展覧会としても、なかなか見ごたえのあるものでした。
河の中に、魚が、冬の間じっとしていました。水が、冷たく、そして、流れが急であったからであります。水の底は、暗く、陰気でありました。魚の子供は、長い間、こうして、じっとしていることに退屈をしてしまいました。早く、水の中を自由に泳ぎたいものだと、体をもじもじさしていました。
浮世絵というものに関する私の知識は今のところはなはだ貧弱なものである。西洋人の書いた、浮世絵に関する若干の書物のさし絵、それも大部分は安っぽい網目版の複製について、多少の観察をしたのと、展覧会や収集家のうちで少数の本物を少し念入りにながめたくらいのものである。
西瓜喰ふ人
牧野信一
滝が仕事を口にしはじめて、余等の交際に少なからぬ変化が現れて以来、思へば最早大分の月日が経つてゐる。それは、未だ余等が毎日海へ通つてゐた頃からではないか! それが、既に蜜柑の盛り季(どき)になつてゐるではないか!
村人の最も忙しい収穫時(とりいれどき)であ る。静かな日には早朝から夕暮れまで、彼方の丘、此方の畑で立働いてゐる人々の唄声に交つて鋏の音が此処に居てもはつきり聞える。数百の植木師が野に放た れて、野の樹の手入れをしてゐる見たいだ。その悠長な唄声、忠実な鋏の音を耳にしながら、風のない青空の下の綺麗な蜜柑畑を、収穫の光景を、斯うして眺め てゐると、余にでさへ多少の詩情が涌かぬこともない。この風景を丹念に描写したゞけでも一章の抒情文が物し得ない筈はあるまい、常々野の光りに憧れ、影の 幻に哀愁を覚えるとか、余には口真似も出来ないが、光りと影については繊細な感じを持つてゐるといふ滝が夢に誘はれないのは不思議だ。木の実の黄色、葉の 暗緑、光りの斑点などを此処から遥かに見晴すと丘のあたりは恰度派手な絨氈だ。